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歴史(日本)2

_ 豊臣秀吉



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その1
豊臣 秀吉(とよとみ・の・ひでよし)は、戦国時代〜安土桃山時代の武将である。 「とよとみ・ひでよし」ではなく、「とよとみ・の・ひでよし」とよむのが正しい。
秀吉は、尾張国の貧家に生まれ、織田信長に仕え頭角を表す。 信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると中国大返しにより京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破り信長の後継を得る。 大坂城を築き関白に任ぜられ豊臣姓を賜り、全国の大名を従え天下統一を成し遂げ、太閤検地や刀狩などの政策を採るが、朝鮮出兵の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康らに託し没した。

一夜で築いた墨俣城、高松城の水攻めなど機知に富んだ逸話が伝わり、貧家から天下人へと至った生涯は戦国一の出世頭と評される。



その2
豊臣秀吉の生涯 豊臣秀吉は天文6年(1537)2月6日、尾張中村にて生まれたといわれる。父は木下弥右衛 門で、織田家の足軽だったといわれるが、実際には百姓の身分であったようだ。

天文13年(1544)に父弥右衛門が亡くなり、母であるなかと再婚した義父と折り合いが悪 く、7歳で光明時に修行に出される。

やがて15歳の頃各地へと奉公をし始め、今川義元の家臣であった松下嘉兵衛に仕えたの が秀吉の武家奉公の始まりだったといわれる。その後松下家を出奔し、18歳頃尾張の織 田信長に仕えたといわれる。

やがて信長の元で出世を重ねていき、永禄4年(1561)浅野長勝の養女であったねねと結 婚。この頃木下藤吉郎秀吉と名乗り始めたようだ。

信長の美濃攻めから一介の武将として世に登場し始める。美濃攻めでは調略活動、ゲリラ 戦などにおいて武功を重ねていくが、永禄9年(1566)9月に美濃の墨俣に一夜城を築いた のはあまりにも有名。これがきっかけで信長の美濃攻めは好転し、翌永禄10年(1567)の 稲葉山城攻めに従軍し、武功を立てた。

その翌年、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たすが、秀吉もこれに従い、京都奉行を任命 される。

秀吉の武将としての名声が高まったのは元亀元年(1570)4月の金ヶ崎城撤退戦。信長は 圧倒的多数の軍勢で越前朝倉氏を攻め立てるが、浅井長政の裏切りにあい窮地に立たさ れたため直ちに撤退した。その撤退戦のしんがりを秀吉が勤めたのである。秀吉は勇猛果 敢にこの窮地を脱し、信長一行を無事京都へ撤退させている。その後の姉川の合戦にも秀 吉は従軍。戦勝後、秀吉は浅井氏の押さえとして近江の横山城へ入る。以降3年間にわた り浅井氏との最前線に立つことになる。

天正元年(1570)、信長は浅井・朝倉氏を一気に葬る作戦を敢行しこれを成功させた。その とき秀吉は浅井氏の小谷城攻めの先陣を切り武功をあげている。これにより秀吉は浅井氏 の旧領北近江12万石を与えられた。またこの頃から姓名を羽柴秀吉と改めている。

翌天正2年(1574)にはそれまでの小谷から、琵琶湖の湖畔にある今浜の地に築城を開始 し、交通の要所としてこの地を長浜と改名してよく治めた。

その後も長篠の合戦などにも従軍し戦功をあげているが、天正5年(1577)には加賀攻めに おいて柴田勝家と対立して帰国し、信長から叱責を受けている。

その後秀吉は中国地方の大国毛利氏との最前線に立つ事になった。信長の命による毛利 攻めである。播磨に入国後、地元の武将らと折り合いがうまく行かず苦戦が続いたが、天 正8年(1580)に播磨の三木城を1年以上かけて攻略しようやく好転を見せ始める。このころ には備前・備中の宇喜多直家を味方につけることに成功している。

天正9年には因幡の鳥取城を兵糧攻めにて開城させ、翌天正10年には備中高松城を水攻 めにして取り囲み、毛利に対して優位に事を運んでいたが、そのころ京都の本能寺におい て信長は明智光秀に討たれてしまう。

その報を聞いた秀吉は、ただちに毛利と和睦して畿内へ取って返す。本能寺から10日ほど で明智光秀を山崎にて打ち破り、秀吉の天下人への道が大きく開けた。

その後清州会議において柴田勝家らを押さえ、信長の嫡孫の三法師を跡取りにすることを 決め、10月には京都の大徳寺にて信長の葬儀を敢行している。

天正11年(1583)には柴田勝家と全面戦争を展開するが、賎ヶ岳合戦において柴田軍を撃 ち破り勝家を滅ぼす。これによって天下人へと大きく近づいた秀吉は、この年の9月大坂城 を築城し始める。

翌天正12年(1584)、反秀吉の動きを見せる織田信雄と徳川家康が結んで秀吉と対決。小 牧長久手の戦いである。秀吉軍は長久手で家康軍に敗れるものの、その後戦況は膠着 し、やがて織田信雄の領土を秀吉軍が侵食したことによって信雄と和睦。その後家康とも 和睦し、天正14年には家康を臣従させている。

秀吉は天正13年(1585)に武家としては初めて関白に叙任。翌年には太政大臣となって豊 臣姓を名乗った。

翌天正15年(1587)には九州の島津氏を屈服させ、九州を平定。その年の10月には聚楽 第を完成させ、京都の北野において大茶会を催している。翌天正16年には後陽成天皇を 聚楽第に招いている。また、この頃から全国的に刀狩りを実行している。

天正18年(1590)には小田原征伐を行い、小田原城を包囲後三ヶ月ほどで開城させ、さら に奥羽の諸大名も屈服し、事実上の天下統一がなった。

秀吉はその前年に待望の嫡男が淀殿によって生まれている。鶴松であるが、その子はわ ずか2年後に亡くなっている。また弟の秀長も死去し、秀吉のブレーンであった千利休をも 自害に追い込んでいる。この頃から秀吉にも陰りが見え始める。

文禄元年(1592)には朝鮮出兵を敢行。秀吉の身辺ではこの年母のなか(大政所)が亡く なり、翌年淀殿に男児が誕生している。後の秀頼である。

このころ、秀吉は伏見城建築に着工している。だが、既に関白の座を譲っていた甥の秀次 との仲が冷却化し、文禄4年(1595)には秀次を自刃に追い込み、秀次の家族も尽く処刑し ている。

慶長3年(1598)、秀吉は最後の大イベントを京都の醍醐にて催す。醍醐の花見である。だ がそれが秀吉最後の輝きとなった。その後秀吉は病に倒れ、この年の8月18日、秀頼のこ とを気に病みながらこの世を去る。享年63歳。



Q.秀吉はすごいですね

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Last-modified: Mon, 25 Jul 2005 14:01:34 JST (5607d)