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歴史(世界)4

中国の清朝の歴史について

まずはじめに、皆さんは弁髪を知っていますか?

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17世紀初頭に明の支配下で、満洲に住む女真族の統一を進めたヌルハチ(太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金国が清の前身である。その子のホンタイジ(太宗)は山海関以北の明の領土と内モンゴルを征服し、1636年に元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽を譲られ、大清皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満州に改めた。 順治帝のとき、李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだので、清はこの機に山海関以南に進出し、李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、とくに鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、はじめ摂政王ドルゴン(ヌルハチの子)によって、のち成長した順治帝の親政によって、中国南部を平定し、明の制度を取り入れて国制を整備した。 順治帝に続く、康煕帝・雍正帝・乾隆帝の三代に清は最盛期を迎えた。

康煕帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合して、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的にはロシアとネルチンスク条約を結んで東北地方の国境を確定させ、外モンゴルとチベットを服属させた。

また、このころ東トルキスタンを根拠地としてオイラト系モンゴルのジュンガル部が勃興していたが、康煕帝は外モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼして東トルキスタンを支配下においた。これによって黒竜江(アムール川)から東トルキスタン(新疆)、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。

こうして少数の満州族が圧倒的に多い漢族をはじめとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、中国王朝の中でも特有の制度を築いた。藩部と呼ばれた内外モンゴル・東トルキスタン・チベットでは土着の支配者が取り立てられて間接統治がひかれ、理藩院に管轄された。満州族は八旗に編成され、軍事力を担った。重要な官職には漢族と同数の満州族が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。

中国が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康煕帝の康煕字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。しかし、一方で満州族の髪型である辮髪を漢族にも強制し、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を弾圧し、凌遅刑と言われる凄惨な処刑を清が滅亡する20世紀初頭まで行い、その刑で処刑された人肉が一般家庭などで平然と食されていたりと暗い面があったことを見落としてはならない。

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中国支配の見通しが立った翌1645年(順治2)には再び薙髪令を発し,10日以内に励行すること,違反者は厳罰に処することを伝え,すべての男子に例外なく徹底的に強制した。漢人のあいだには大混乱が生じ,とくに江南地方でははげしい反抗がおこったが,“弁髪しないものは首を落とす”といって弾圧強行した。中国支配の確立とともに,その後は漢人一般の風習として定着し,清末まで続きました。

 
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Last-modified: Mon, 22 Nov 2010 20:05:57 JST (3660d)